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横浜地方裁判所 昭和41年(ワ)618号 判決

原告 高畑フミ子

〈ほか二名〉

右原告三名訴訟代理人弁護士 畠山国重

星野卓雄

右訴訟復代理人弁護士 山田裕四

被告 学校法人成美学園

右代表者理事 酒井瞭吉

〈ほか三名〉

右被告四名訴訟代理人弁護士 稲木延雄

稲木俊介

鈴木政勝

主文

被告らは各自、原告高畑フミ子に対し金三五万円、同高畑美園、同高畑美鈴に対し各金一五万円および右各金員に対する昭和四〇年六月三日以降各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の各請求は棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。

この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一、申立

一、原告ら

「被告らは各自、原告高畑フミ子に対し金六〇万円、原告高畑美園、同高畑美鈴に対し各金二〇万円および右各金員に対する昭和四〇年六月三日以降各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求める。

二、被告ら

「原告らの各請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求める。

第二、請求原因

(原告らの身分)

一、原告高畑フミ子(以下「原告フミ子」と略称する。)は亡高畑義綱(以下「義綱」又は「亡義綱」と略称する。)の妻であり、原告高畑美園(以下「原告美園」と略称する。)、同高畑美鈴(以下「原告美鈴」と略称する。)は右義綱の子である。

(被告らの地位等)

二、被告学校法人成美学園(以下「被告学園」と略称する。)は私立学校(成美学園女子高等学校、成美学園女子中学校、成美学園小学校、成美学園幼稚園)を設置する学校法人であり、被告湯本アサ(以下「被告湯本」を略称する。)は被告学園の理事兼園長、被告堀江伸二(以下「被告堀江」と略称する。)は被告学園の設置する成美学園女子高等学校校長の職に在り、被告大津立雄(以下「被告大津」と略称する。)は被告学園の事務長の職に在ったものである。

(被告らの加害行為)

三、(一) 亡義綱は昭和三八年九月二〇日被告学園に雇用され、当初は夜警として、次いで翌三九年九月頃以降用務員として勤務していたが、同三九年一一月二〇日午後一時過頃、同学園教室内において螢光灯取換作業中、踏台より足を滑べらせて転落し、左胸部、左下腿部を強打し、そのため同日より約一週間治療のために欠勤した。

(二) 義綱はその後も右打撲個所が全治せず、時折胸部に痛みを感じるので、翌昭和四〇年一月八日以降再び欠勤し、被告学園の校医である田仲医院山本皓三医師のもとに通院して治療を続け、同月下旬頃、右医師の紹介により磯子日赤病院、更に井土ヶ谷外科医院(劉萬生医師)においてそれぞれ診察を受けたが、右各診察の結果はいずれも前記胸部の痛みは前記打撲によるものであり、なお胃炎の疑いがあるとの所見を示されたにすぎなかった。しかし、義綱は前記転落事故より既に二ヶ月余経過してもなお胸部の痛みが消えないので、昭和四〇年二月一一日横浜市立大学医学部病院(以下「市大病院」と略称する。)において診療を受け、同月二五日右病院に入院し精密検査を受けたが、右検査によっても前記胸部の痛みの原因を確定することができなかったので、市大病院においてはやむなく試験開腹手術により病因を究明することになった。

四、ところで、前記一連の診療は義綱の業務上の負傷に対するものであるから、その費用は当然同人の使用者である被告学園が支払をなすべきものであるにもかかわらず、同被告はこれを免れるため私立学校教職員共済組合法所定の療養給付を受ける手続をとるように義綱に指示した。もっとも右は違法なことであり、被告学園従業員中島輝等の勧告もあったため、被告学園は昭和四〇年三月一六日一旦は義綱および原告フミ子に対し前記治療費一切は被告学園において支払うことを約し、前記転落事故は業務上のものであることを証明する旨の「現認証」なる書面を作成し原告フミ子に交付し、翌一七日原告フミ子から右「現認証」の提出を受けた市大病院会計課事務員増淵正夫から電話で照会を受けた際にも同学園が使用者として義綱の治療費の支払をする意思のあることを一応確認した。

五、さて、昭和四〇年三月一八日に至り、義綱は市大病院で前記試験開腹手術を受けたが、その結果、意外にも膵臓腫瘍が発見された。

六、右疾病は義綱の業務遂行中に生じかつ業務に起因するものであるから、必要な療養の費用は義綱の使用者たる被告学園の負担すべきものである。ところが、被告湯本は、右手術費用が予想していた金額を著しく上廻るものであったこと、又義綱の病状が思かしくないので、被告学園が、将来に亘り、義綱の治療費、休業補償および同人が死亡した場合における遺族補償等多額の費用の出捐を余儀なくされるおそれが多分にあると考えたことから、右治療費等の支払を免れるため、昭和四〇年四月上旬被告大津をして市大病院会計課より前記「現認証」の返還を受け、かつ、義綱の傷病につき共済療養給付を受ける手続をとらせた。このため原告らは義綱の治療費に窮し、同月二二日、当時継続的に起る発作による激痛に苦しんでいた義綱を担当医の反対を押して退院させることを余儀なくされた。

七、(一) そこで、昭和四〇年四月三〇日、原告フミ子は被告学園において被告湯本に対し、治療費等を被告学園において負担して欲しい旨要求したが、同被告は「高畑さんは四月一杯でやめてもらう。」と言って、治療費等の支払を免れるため義綱を強引に退職させようとした。

(二) 同年五月一六日、被告堀江は義綱宅を訪れ、前記退院後自宅療養中の義綱および原告らに対し「学園としては高畑さんは四月一杯で辞めてもらう積りでいるので退職届を提出するように。」と要求した。右義綱は当時重態であったが、同被告の不当かつ執拗な要求を知り多大な精神的打撃を受け、原告らに対しその口惜しさを繰り返し表明した程である。又、原告らは、夫又は父の危篤状態を無視した被告らの強硬かつ正当な理由無き退職強制に全く疲労困憊した。

(三) 同月一九日午前一一時頃、義綱の病状が悪化し、同人は直ちに救急車で市大病院に再入院した。ところが入院後わずか三〇分余り後、被告堀江は又々同病院を訪れ、危篤の夫に付添う原告フミ子に対し「私は湯本園長の意向を伝えるのだが、退職届を早急に提出するように。」と執拗に要求を繰り返した。

(四) 同月二一日、被告堀江は予め用意した退職届用紙二枚を市大病院に持参し、原告フミ子に対し右用紙に捺印するよう迫り、同原告が「本人が危篤で面会謝絶の状態であり相談することが全くできないから退職の件はもう少し待って欲しい。」と繰り返し懇願したが同被告は右退職届用紙を同原告に預けて帰って行った。

(五) 同月二三日被告大津が市大病院を訪れたが、既に義綱は前夜半より昏睡状態に陥り原告らも担当医師大久保高明から最早同人の生命をとりとめる望みは極めて少いことを告げられ、ひたすら夫又は父の生命を気遣っており、病室には面会謝絶の表示がされているという情況の下で、被告大津は病室前の廊下で原告らの必死の哀願もかえりみず、原告らに対し前々日被告堀江が預けていった退職届にすぐ捺印するようにと執拗な強制を繰り返した。この様子を目撃した大久保医師は同被告に対し「赤い血が流れている人間なら死んでいく人に対して言えることですか。」と言って同被告の非人道的行為を非難した。

(六) 被告ら(被告学園を除く。以下単に「被告ら」というときは同じ。)は、前記のとおり義綱および原告フミ子に対し再三、再四に亘る不当な退職強制をしたものの遂に右義綱より退職届を得ることができなかったので、同年五月二八日義綱に到達した内容証明郵便を以て、同年四月末日に遡って停年を理由として解雇する旨の意思表示をなした。しかし被告学園にはその頃いわゆる停年制は実施されていなかったものであり、特に義綱の如き用務員に関しては停年制の定めは存在せず、現に被告学園においては義綱(当時六五才)より高令者である春里武富、荒井藤吉、加藤小五郎が勤務しており、又森川住吉は昭和三七年三月当時六五才であったが被告学園に雇用され、昭和四〇年一二月一九日解雇予告を受けるまで勤務していたことによっても用務員に関し停年制の定めの存在しなかったことは明らかである。更に、被告学園において事務職員の停年年令とされている六〇才を越える被告大津および中島輝、福島智恵、根岸忠雄がいずれも事務職員として勤務しており、又専任教職員の停年年令とされている五五才を越える被告堀江および本多英、金田恵光がいずれも教職員として勤務しており、停年制の実施がしかく厳格に行われていないことが看取できる。

ところで前記内容証明郵便は当時生死の境をさ迷う義綱が入院中の病室に郵送されたものであり、しかも同じ内容の内容証明郵便が夫又は父の病状を気遣う原告らの留守宅(当時横浜市南区井土ヶ谷上町一六三番地山口アパート二階一号室)にも配達された。病室に郵送された内容証明郵便を見た義綱は被告学園の余りに非情な仕打に号泣した。

(七) 被告大津は同年五月三〇日又々右義綱の病床を訪れ、病床に集る原告らに対し「高畑さんは解雇したから学校で治療費の支払はしない。共済療養給付による治療継続届(資格喪失後給付届書)に判を押せ。」と言って原告らに対し捺印を要求し、原告らから「今晩か明日が危いからそのような話しは改めてして欲しい。」旨懇願されたのに、更に前記大久保医師に対し、右治療継続届に添付すべき診断書の作成を要求し、同医師から「せいぜい明日の晩まできりもたないからその様な手続は必要でない。」と断られ、やむなく一旦帰った。

(八) ところが、同日午後九時頃同被告は再び市大病院を訪れ、原告フミ子に対し前同様の要求を繰り返した。その時義綱の容態が急に悪化したため、隣の患者の付添中の石川家政婦が義綱の枕元を離れて廊下で同被告と応待していた同原告を大声で呼び戻す始末であった。

(九) 翌六月一日夜、被告大津は偶々原告フミ子が病室の席を外している時又々義綱の病室に現れたが、病室にいた原告美園、同美鈴の二人が同被告を恐れ病室の扉を固く閉ざしてやっとの思いで同被告を追い払った。

(十) 翌六月二日午後二時、義綱は前記の如き被告らの非人間的行為を激しく怒り、かつ原告らの将来を気遣いながら死亡した。

(被告らの行為の違法性と被侵害利益)

八、被告らの前記六記載の義綱に対する治療費支払方法の切換手続をした行為および前記七記載の退職を執拗に強制し、退職届に押印を強要した行為は、被告らが義綱の病状その他前記諸般の事情を熟知しながら敢えて行ったものであり、社会一般人が有すべき当然の良識を外れた非人間的行為と言わざるを得ない。仮に義綱の膵臓腫瘍が同人の業務上の事故に起因するものでなく、従って被告学園が使用者として当然に療養に必要な費用を支払わなければならないものではなかったとしても、同人に対する治療費支払方法の切換手続をした行為が上記の非難を免れるものではないとすべきである。また、退職を要求した行為については仮にそれが被告学園の解雇権の行使の趣旨でなされたものであるとしても、その具体的態様において明らかに正当な権利行使の範囲方法を越え、権利の濫用というべきものである。

原告らは被告らの右行為により精神的自由又は精神的平静を侵害された。即ち、被告らが原告らに対し面会を強要した上退職届の押印を強要した点は、原告らの意に反する行為を要求するものであって原告らの精神的自由の侵害であるのみならず原告らの精神的平静の侵害でもある、又、昭和四〇年五月二八日被告学園が義綱に対してなした解雇通知は義綱の精神的平静を侵害した。更に被告らの前記六、七記載の行為は全体として義綱ならびに原告らが平穏に療養し、看病に専念する生活の平穏を侵害したものである。以上の、被告らの行為の態様と義綱および原告らの利益を相関的に観察するならば、被告らの叙上行為が違法性を有することは明らかである。

(被告らの責任)

九、前記六、七記載の被告らの行為は全体として被告湯本、同堀江、同大津三名の共同の意思をもって行なわれたものであるから右被告三名は右行為につき連帯して不法行為の責任を負うべきである。

又、被告湯本は右不法行為を被告学園の理事の職務を行うについてなしたものであるから、被告学園も又義綱および原告らに対し前記不法行為の責を免れない。仮に被告湯本について不法行為が成立しないとしても、被告堀江、同大津は被告学園の被傭者として被告学園の事業の執行について前記不法行為をなしたものであるから、被告学園は使用者として右不法行為につき損害賠償の責に任ずべきである。

一〇、(一) 亡義綱は本件転落事故まではほとんど欠勤することなく誠実に被告学園における業務を行っていた。ところで義綱は前記六、七(一)、(二)、(六)記載の被告らの行為の当時、病状は小康を保ち意識を有していたものであるが、被告らの非情な措置を激しく非難するとともに、病床にあって妻子の生計のことを考え、原告らに対ししばしばその点に関する不安を訴えていた。右事実に徴しても、亡義綱の精神上の打撃が極めて甚大であったことが明らかであり、これを金銭に見積れば金三〇万円を下ることはない。

そして原告らは義綱の被告らに対する右慰藉料請求権の三分の一をそれぞれ相続により取得した。

(二) 原告フミ子は昭和二四年三月義綱と結婚して以来、一六年間極めて円満な夫婦生活を送ってきたものであるが、義綱が病に倒れるや同人の身体、生命を気遣い、その上未成年の子原告美園、同美鈴の二人を抱え、精神的、肉体的又経済的に苦悩に満ちた日々を送っていたところ、右のような状態の同原告に対してなされた被告らの行為により多大な精神上の打撃を被った。その額は金五〇万円を下ることはない。

(三) 被告らの前記不法行為の頃、原告美園は、横浜学園高等部二年に、同美鈴は蒔田中学二年にそれぞれ在学していたものであり、共に極めて多感な年令であったが、父の生命の安否を気遣い不安な日々を送っていたところ、被告らの前記不法行為により精神的損害を被った。その額は右原告両名につき各金一〇万円を下ることはない。

(結論)

一一、よって被告らに対し、原告フミ子は金六〇万円、同美園、同美鈴は各金二〇万円および右各金員に対し前記不法行為の後である昭和四〇年六月三日以降支払済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払を求める。

第三、被告らの請求原因に対する答弁ならびに主張

一、請求原因一、二の事実は認める。

二、同三(一)の事実中、義綱を雇傭した日時、同人の負傷の部位、程度および欠勤した期間の点は否認し、その余の事実は認める。

被告学園が義綱を雇傭したのは昭和三八年一〇月一四日である。義綱の本件転落事故による負傷は左下腿打撲裂傷であった。又、義綱が右負傷により欠勤したのは昭和三九年一一月二五日ないし二七日の三日間であり、その他の日は出勤して平常通りの勤務に服していたばかりでなく、日曜毎の夜警勤務をも進んで引き受けること五回にも及んでいるのである。

三、同(二)の事実中、義綱が昭和四〇年一月八日以降欠勤した事実、同人が田仲医院および磯子日赤病院で診察を受けた事実は認めるが、その余の事実は知らない。

四、請求原因四の事実中、被告学園が「現認証」なる書面を作成した事実は認め、その余の事実は否認する。

義綱が昭和四〇年一月八日以降欠勤して医師の診療を受けた傷病は前記昭和三九年一一月二〇日の事故とは無関係でありこれについて共済療養給付を受けるべきことは当然であって、特に被告学園の指示を要することではない。

「現認証」は被告学園長より市大病院長に宛てたものであるが、単に義綱の前記負傷が昭和三九年一一月二〇日業務作業の際に生じたものである事実を証明したにすぎず、同人の傷病が使用者においてその療養に必要な費用を支払うべきいわゆる業務上傷病であることを認めた趣旨ではない。

被告学園は昭和四〇年四月二二日頃市大病院より入院費差額負担の照会を受け、被告大津が同病院会計課に赴き被告学園では義綱の病気を業務上傷病と認めていない旨話したところ、同病院は共済療養給付を受ける手続をとるよう指示し、被告学園に対し「現認証」を返戻した。

五、請求原因五の事実は不知。

六、請求原因六の事実は否認する。

七、(一) 請求原因七(一)の事実は否認する。

被告学園には停年制があり、作業職員(用務員)については停年は満六五才とされている。義綱は明治三三年三月二八日生であるから昭和四〇年三月二八日を以て満六五才に達し当然停年になるわけであるから退職強制ということはありえず、また、退職を強要したことはない(後記一一参照)。

(二) 同(二)の事実中、被告堀江が義綱宅を訪問した事実のみ認め、その余の事実は争う。

被告堀江が同人宅を訪問したのは昭和四〇年五月一七日である。

(三) 同(三)(四)の事実中、被告堀江が昭和四〇年五月中二回市大病院を訪れたこと、第二回目の訪問の際原告フミ子に退職願用紙を預けて帰ったことは認めるが、その余の事実は否認する。

被告堀江が市大病院を訪れたのは昭和四〇年五月二〇日午前と、同月二二日の両日であった。

(四) 被告堀江は昭和四〇年五月一七日に義綱宅に、又同月二〇日と二二日の両日市大病院にそれぞれ原告フミ子を訪問しているが、退職を強制するために行ったものではない。そして、同被告は自宅の時は義綱の病室の隣の部屋で、又市大病院では病室に入らず廊下で原告フミ子と話をしたものである。又「退職願を書くならばこのように書くように。そして一通を被告学園に提出し、他の一通は控として原告フミ子の方で持っているように。」と言って退職願用紙を同原告に渡して来たのである。尚、五月二〇日には亡義綱に対する被告学園からの病気見舞金を贈るために行ったものである。

(五) 同(五)の事実中、被告大津が昭和四〇年五月二三日夕刻市大病院に義綱を訪ねたことは認めるが、その余の事実は否認する。同被告は廊下で、原告フミ子から義綱の病状を聞き直ちに辞去した。大久保医師と会ったことはない。

(六) 同(六)の事実中、内容証明郵便発送の事実および原告ら主張の春里武富外一〇名が停年後も被告学園に勤務していることは認めるがその余の事実は否認する。

既に停年を経過した職員が勤務しているのは被告学園において昭和二九年三月以降実施されている「停年に関する規定」の但書により被告学園に必要欠くべからざる者として停年を延長したものである。即ち被告学園では、四月一日から翌年三月三一日までの一会計年度内に停年に達した職員を年度末の三月三一日を以て停年退職とし、停年退職者からは出来るだけ退職願を提出させ、自己退職という形をとるようにしている。そして必要欠くべからざる者として停年を延長する場合は最長五年間、一年毎に延長することにしているのである。

原告ら主張の停年延長者の延長事情等は左のとおりである。

1、春里武富

昭和四一年三月三一日停年のところ延長二年目の者である。同人は用務員であるが、被告学園と銀行との間の現金運搬の仕事をしており、誠実で、従来現金を取扱わして事故無く、信頼のおける人物である。

2、荒井藤吉

昭和四二年三月三一日停年のところ延長した者である。同人は被告学園の作業長の職に在り、下水道、庭園管理責任者である。

3、加藤小五郎

昭和四一年三月三一日停年のところ延長二年目の者である。同人は高校用務員の責任者であり、学園内の一切のペンキ塗装を受持ち、和文、英文の標識の作成にも携わり、他にこの仕事が出来る者がいない。

4、被告大津

同人は被告学園の事務長の職に在ったものであるが、適当な後任者がなかったため停年を二年延長し、昭和四二年三月三一日退職した。

5、福島智恵

同人は被告学園の会計主任の職に在る者であるが、昭和四二年三月三一日停年のところ適当な後任者がないため一年停年を延長したものである。

6 根岸忠男

同人は被告学園参与であり、校長に準じ停年制の適用はない。

7 被告堀江

同人は被告学園女子高等学校校長の職に在る者であり、校長については停年制の適用はない。

8 本多英

同人は昭和二六年六月以来被告学園女子高等学校の教員の職に在る者で、現在高等学校教頭の地位を占め、校長補佐として必要欠くべからざる者であるため、昭和四二年三月三一日停年のところ延長したものである。

9 金田恵光

同人は被告学園の英語主任教師の職に在った者であり、適当な後任者がなかったため三年間停年を延長して来たが、昭和四二年三月三一日退職した。

10 中島輝

同人は東京電力株式会社退職後、被告学園の電気主任技術者として勤務している者であるが、担当業務の性質上なかなか後任者が決まらず停年を延長して来たものである。

11 森川住吉

同人は、同人の妻文江を給食係として採用した際、同人の強い希望と被告学園の大工職用務員の欠員補充の必要から既に六五才に達していたが大工職として採用したものである。

(七) 同(七)の事実は否認する。治療継続届は義綱が退職後も引続き共済療養給付による治療を受けるために必要な手続であるので、診断書の交付を受けてその手続を完了した。

(八) 同(八)(九)の事実は否認する。

(九) 被告大津は前後三回義綱および原告フミ子を訪問している。

一回目は義綱が市大病院に入院し手術を受けたときで、このときは用務員の荒井、加藤の両名と一緒に見舞に行ったのである。

二回目は義綱が市大病院を退院し、自宅で療養しているときで、このときも見舞品を持参し、病気見舞に行ったのである。

三回目は義綱の二回目の入院のときで、このときは前記治療継続届に義綱の印をもらいに行ったもので、病院の廊下で原告フミ子に会って印をもらい帰っている。

以上三回とも被告大津は義綱および原告フミ子に退職の話をしたことはない。

(十) 同(十)の事実中、義綱が死亡した事実は認め、その余の事実は否認する。

八  請求原因八の事実は否認する。

(一)  被告らが義綱および原告らに対し面会を強要したことはない。即ち、原告フミ子は被告らとの面会を断ったことは一度もなく、かえって同原告は被告堀江の訪問の際、自宅から京浜急行井土ヶ谷駅まで同被告を出迎えに来たり、あるいは市大病院の玄関まで同被告を出迎える旨申し出ている位である。

(二)  亡義綱の病気は膵臓癌であり、その発生は前記転落による負傷とは何等因果関係のないものであるから、被告学園が義綱の使用者としてその治療費を負担すべき義務はない。市大病院が義綱の療養を共済療養給付によって行うように指示し、前記疾病を業務上傷病として扱わなかったのは当然のことであり、むしろこれを業務上傷病として被告学園に療養費の負担を求めること自体不当なことである。

九、請求原因九の事実は否認する。

一〇、(一) 請求原因一〇(一)の事実は争う。義綱は昭和三八年一〇月一四日に被告学園に採用されて以来、同年中に病欠八日、事故欠二〇日、計二八日間も欠勤している。

(二) 同(二)(三)の事実はいずれも争う。

一一、被告らが不法行為による責任を負うべき筋合でないことは以下に述べる義綱の採用および解雇の事情に徴しても明らかである。

被告学園が義綱を採用するにあたっては事務長である被告大津ならびに参与(学園長補佐)根岸忠男の両名が面接したが、その際義綱に対し被告学園の職員の停年制を説明し、同人はそのことを諒承したうえ就職を希望したので、同人を採用したのである。その後前記のとおり同人は昼間勤務に勤務替となったが、その際被告学園は義綱に対し、同人が昭和四〇年三月に停年退職となるので長く勤務できないことを告げ、同人の諒承を得た。

しかし、被告湯本は義綱が停年に達する昭和四〇年三月当時同人が病気入院中であったという事情を考慮して同人退職の日を一ヶ月延すことにし、その旨三月の定例理事会に報告し了承を得た。ところが、原告フミ子はこの処置に不満で、被告湯本に対し義綱の病気が回復するまで退職を延ばしてもらいたい旨申し入れて来た。しかし、被告湯本としては義綱の退職を一ヶ月以上延すことはできなかったので、原告フミ子に対し四月三〇日付で義綱の退職願を出すよう要求した。しかるに原告フミ子はこれに納得せず、その後再三退職延期の申し入れをするばかりでなく、同年五月一〇日に被告学園に対し欠勤期間を五月一日から同月三〇日までとする義綱の欠勤届を提出し、更に同月二〇日には原告美園が義綱の五月分の給料を受領に来るという状態であったため、被告湯本としてはその処置に全く困惑し、いつまでもこのような状態を放置しておくわけにはいかないので、義綱の雇傭契約に基づく身分の喪失を明確にする処置として、同月二六日付内容証明郵便を以て右義綱に対し同年四月三〇日付で解雇する旨の意思表示を発したのである。

そして、被告学園は義綱に対し規定による退職金を支給し、病気見舞金二〇、〇〇〇円を贈り、その他同人の入院治療費の中自己負担分の金二〇、九二〇円についても原告フミ子の要請によりこれを支払っているのである。

以上の経過からみて被告学園の処置は善意ある行為と認められこそすれ、不法行為の責任を追求さるべきものとは考えられない。

第四、証拠≪省略≫

理由

一、請求原因一、二の事実は当事者間に争いがない。

二、(義綱の傷病と死亡に至る経過)

≪証拠省略≫を総合すれば次の事実が認められる。

(一)  亡義綱は昭和三八年一〇月一四日被告学園に用務員として雇傭され、当初は夜警として勤務していたが、翌三九年九月頃、同学園技術部主任中島輝の要請により同部用務員(昼間勤務)として同学園内の電気関係等の仕事を担当することとなった(義綱が被告学園に用務員として雇傭され夜警として勤務していたが、昭和三九年九月頃昼間勤務となったことは当事者間に争いがない。)。

(二)  昭和三九年一一月二〇日午後一時頃、義綱は同学園本館一階中学校二年E組教室内において不点螢光灯の取換作業実施中、踏台として使用した生徒机の上に置いた腰掛より足を滑らせ体の安定を失って転落し、周囲の机、腰掛等に当り、約一週間の休養加療を要する左下腿打撲裂傷を負った。右負傷により同人は横浜市南区大岡町の田仲医院に通院し山本皓三医師の治療を受け、同月二五日ないし二七日の三日間欠勤した(義綱が前記日時に被告学園内において前記作業中踏台より足を滑らせて転落し負傷したこと、同人が田仲医院で診察を受けたこと、期間の点を除き同人が欠勤したことは当事者間に争いがない。)。

(三)  義綱はその後出勤したが、同年一一月下旬頃から胃部に重圧感を覚え始め、同年一二月に至り左胸部に鈍痛を感じるようになった。右鈍痛については、前記田仲医院において翌昭和四〇年一月一一日左胸部打撲后胎症と、同月二五日慢性胃炎と一応診断された。しかし、同病院での検査の結果潜血反応が発見されたため、胃部等のX線撮影を試みたが、病因と覚しきものは判明せず、更に磯子日赤病院において胃カメラによる検査を行ったがはっきりした病因はなお判明しなかった。同人は前記左胸部痛のため同月七日以降被告学園を欠勤した(義綱が田仲医院および磯子日赤病院で診察を受けたことは当事者間に争いがない。)。

(四)  義綱はその後も左胸部の鈍痛が続くので、同年二月一二日市大病院第二外科で診察を受け、同月二五日同病院に入院して精密検査を受けたが依然病因は判明しなかったのみならず前記鈍痛が以前よりやや強くなったため、同年三月一八日、病因究明のため試験開腹手術を受けた。

そして、右手術の結果、膵臓尾部に腫瘍が発見され、膵臓尾部部分切除、脾摘、結腸部分切除が施行され、病理学的検査の結果同月二六日右腫瘍が腺癌であることが判明した。

(五)  その後義綱は腸閉塞のため同月三〇日再手術を受けた。同日担当医師から原告フミ子に対し義綱が癌に冒されている旨の告知がなされた。

(六)  そして翌四月二二日同人は、担当医師の強い反対を押し切って市大病院を退院した。当時同人の病状は時々痛みによる発作が起る程度であり、意識ははっきりしていた。しかし、担当医師は原告フミ子に対しては義綱の生命は同月一杯、長くても一ヵ月位しか保し難い旨告知した。

(七)  ところが同年五月一九日午前一一時頃、同人に強い発作症状が起きたため救急車で市大病院に再入院した。

(八)  再入院後の義綱の容態は非常に重く、激痛を注射で押える状態が続き、同月三〇日頃以降はほとんど昏睡状態に陥り、六月一日危篤状態となり、本人は最後まで癌に罹ったことを知らないまま翌二日午前五時一五分死亡した(義綱が死亡した事実は当事者間に争いがない。)。

三、(被告らの加害行為)

≪証拠省略≫によれば次の事実が認められる。

(一)  被告学園においては昭和二九年三月以来「成美学園職員停年に関する規定」が実施されている。右規定によれば作業職員の停年は満六五才であり、必要欠くべからざる場合は補助職員として五年間停年を延長することができる旨定められている。そして右規定は職員が停年に達した日の属する会計年度の末日たる三月三一日を以て当然に雇傭契約を終了せしめることとし、かつ当該職員から任意退職届を提出させるという方式で、多年に亘り運用され、この方式が雇傭契約関係の内容に包摂されるに至っていた。以上は義綱の諒知していたところであった。なお、被告学園では、右規定により停年に達した職員は退職するのが原則であったが、後任者等の都合により停年を延長される者も相当数あり、停年の延長は前記五年間の範囲内で一年毎に更新するのが慣例とされていた。

(二)  義綱の被告学園における身分は右規定にいう作業職員に該当し、同人は明治三三年三月二八日生であるから昭和四〇年三月二七日の満了時を以て満六五才を迎えたものであるが、被告学園において義綱に対する停年延長の措置をとらなかったので、同月末日を以て被告学園と同人の間の雇傭契約は終了することになった。しかし、前述の如く同人は当時病床にあったため被告学園では被告湯本の建議により同年四月の定例理事会において、一ヵ月間に限り同人との雇傭関係を維持し、同人に対し四月分の賃金を支給するが、同月末日に限り同人を退職させることを決定した。

(三)  被告湯本は医学博士号を有し、開業の経験もある者であるが、既に昭和四〇年一月末頃前記山本皓三医師から義綱の左胸部痛の症状、田仲医院および日赤病院における診察、検査の詳細を聞き及んで、義綱が癌に冒されているのではないかとの疑いを抱いていたが、義綱が同年三月一八日前記手術を受けて間もなく、被告大津とともに市大病院に赴いた際担当医師から義綱の疾病が膵臓癌であること、同人の生存は日時の問題であることを知らされていたので、通常ならば被告湯本の専権に委ねられていた作業職員の停年延長措置を義綱についてとることなく、同人の停年を迎えたが、同人の病状をも慮り、特に理事会に建議して一ヵ月間に限って義綱に被告学園職員としての身分を与える旨の前記決定を得たので、義綱からは同年四月三〇日限り被告学園を退職する旨の退職届を提出させ、同人との雇傭関係を終了させようと考えた。そこで、被告湯本は同年四月三〇日、被告学園に原告フミ子を招き、同原告に対し義綱には同年四月一杯でやめてもらう旨告げ、退職届の提出方を求めた。これに対し同原告は「義綱はひどい煩いをして、もう二度と勤めることはできないと思うから、停年ということでなく、もうしばらく息のある間だけ面倒を見ていただきたい。」と懇願するのみであった(当時、義綱は市大病院から退院し自宅において療養中であったこと前認定のとおりである。)。

(四)  しかるに、その後義綱からは退職届が提出されないのみか、同年五月一〇日には井土ヶ谷外科医院劉萬生医師の診断書を付して同月一日以降三〇日までの欠勤届が提出された。このような事態に困惑した被告湯本は、義綱の病状につき右診断書(同月八日付)には義綱が当時既に悪液質を呈している旨明記され、かつ、前記欠勤届の提出後被告湯本自身劉医師から義綱が食事もできず、昼夜絶間なく痛みに襲われており、再入院は必至であること、後一ヵ月位しか生命がないであろうことを聞き及んでいたに拘らず、なんとしても義綱の退職届を得ようと考え、被告堀江に退職届提出方を要求するよう指示した。同月一五、六日頃被告堀江は被告湯本の右指示に基づき義綱宅を訪れ、同人を見舞った後、隣室で原告フミ子に対し「学園長の命令でやむなく参りました。停年ということでやめていただきたい。ついては退職願いが出ていないから書いていただきたい。」と要求した。これに対し同原告は「次の入院の段取りもしてあり、長いことはありませんから、そういう話は聞かせないでそっとしておいてほしい。」と答えたので、同被告はやむをえないとして義綱宅を辞した(日時の点を除き被告堀江が義綱宅を訪れたことは当事者間に争いがない。)。

(五)  被告堀江は、被告湯本から前記指示を受けた際、義綱の病状の大体を知らされたうえ、自ら義綱と対面してその衰弱を目にし、かつ原告フミ子の前記のような返答に接し、義綱の余命のいくばくもないことを推知したに拘らず、同月一九日義綱が病状の悪化のため市大病院に再入院した直後、義綱宅を訪れ同人の再入院を知るや、直ちに市大病院に赴き、同人の病室前の廊下で原告フミ子に対し「先日のお話を本人さんにしていただきましたでしょうか。湯本園長さんが非常に急いでおられますので、是非あなたの方から退職したという形式のもとに処理したいと思いますので、退職願を書いていただきたい。」と先日の申入れに対する回答を要求した。原告フミ子は「主人に相談しますから、どうか少し落着くまで待っていただきたい。」と答えた。被告堀江が市大病院を訪れたのは義綱が再入院してから三〇分位後で、義綱に対する応急手当がようやく終ったばかりの時刻であって、未だ動揺の治まらない原告フミ子が被告堀江と面談している最中に、父再入院の連絡を受けた原告美園が通学先から急ぎ同病院に到着したという慌しい状態のもとにおいてであった。

(六)  同月二一日、被告堀江は再び市大病院に原告フミ子を訪ね、予め被告湯本と相談のうえ作成した退職願用紙二通(便箋に手書きしたもので、内一通は義綱の押印さえあれば、完備するもの)を同原告に示し「お宅の方も大変でしょうから私が退職願の紙を持ってきました。旦那さんに相談できなければ奥さんでも結構ですから、これに判を押して円満に解決していただきたい。」と述べて退職願の作成提出方を要求したが、原告フミ子は「主人はまだ生きているんですから、黙って判を押すわけにはいきません。本人の気分が良く話しのできるときに一言だけ話してからにしますから今日はお引きとり下さい。」と答えた。そこで、被告堀江は前記用紙を原告フミ子に託して辞去した。当時、義綱は患部が痛み出すと痛み止めの注射を受けるということを繰り返えしていた状態であった(被告堀江が昭和四〇年五月中二回に亘り市大病院を訪れたこと、第二回目訪問の際原告フミ子に退職願用紙を預けて辞去したことは当事者間に争いがない。)。

(七)  被告大津は既に昭和四〇年三月一八日の義綱の前記手術の後被告湯本とともに市大病院に赴いた際担当医師の話から義綱が癌に冒されており、同人の生存は日時の問題であることを知っていたものであるが、前叙のとおり義綱の退職届提出の件がはかばかしく運ばないため、被告湯本の意を承けて、同年五月二三日夕刻市大病院を訪れ(右日時に被告大津が市大病院を訪れた事実は当事者間に争いがない。)、原告フミ子に対し「堀江校長さんが見えて退職の書類を置いていかれたそうですが、なんら整理がついていません。早急に判を押していただきたい。ご主人にはあなたの方から話しをしましたか。」と述べて、退職届の提出を要求し、同原告が「話しはしていません。もういくばくもない命ですから、酷で言えません。もうしばらくそっとしておいて下さい。」と答えるや、「奥さんからでは言いにくいでしょうから、一度私がお会いして話しましょうか。高畑さんは去年の暮から業務上の負傷でこうなったと信じておられるのでしょうが、私と湯本園長さんがお医者さんに会って癌だということをはっきり聞いてあるんです。事故がもとでこうなっているのに退職願はもってのほかだと本人は誤解されているのでしょうから、あなたの病気は癌で、その事故とは関係がないんですと私が説明します。」とすら放言した。このような押問答が続いている最中、義綱の容態が悪くなったため、付添っていた原告美園および同美鈴が原告フミ子を再三呼びに来たが、同原告は被告大津との応対に忙殺され、又同被告が一緒に病室に入って来て義綱に癌の話しをされたら困ると考え、原告美鈴、同美鈴に対し隣室の付添婦石川秋子に看護を頼むよう指示したところ、石川秋子が原告フミ子のところへ飛んで来て同原告に対し「とんでもない。こういうふうな状態のもとにいつまでも放っておくんですか。いい加減になさい。」と怒鳴った。このため原告らは義綱の病室の前を右往左往する有様であった。当時原告美園および同美鈴は学校にはできるだけ行かないで義綱の傍にいるよう担当医から指示されていた。

(八)  被告湯本は義綱から退職願がなかなか提出されないうえ、同年五月二〇日原告美園が被告学園に義綱の五月分の賃金を受取りにきたということもあって、五月一杯には問題を解決しようと考え、被告学園の校長(被告堀江を含む。)、教頭、宗教主任、参与で構成される校務会に諮ったうえ、同年五月二六日義綱方(当時の住所横浜市南区井土ヶ谷上町一六三山口アパート二階一号室)宛に、同月二八日義綱の入院先(市大病院第二病棟三階一五号室)宛に解雇通知と題し、同年四月三〇日付を以て職を解いた旨を記載した内容証明郵便を発送した。このうち入院先宛の内容証明郵便は同月二八日頃配達されたので、原告フミ子がこれを受領したが、義綱は右郵便が配達されたことを通知する院内放送を耳にしたため右内容証明郵便の内容を読むこととなり、更に同じ日原告美園が自宅から持ち帰った同文の内容証明郵便(同月二六日配達)を見て、初めて退職の件を知り、原告フミ子から従来の被告学園との間のいきさつを聞き「もうすぐ治って皆さんに恩返しするよう一生懸命働こうと思っていたのに、寝ている間にこういうものをよこすとはひどい。」と言って号泣した。

(九)  同月三〇日夕刻、被告大津は市大病院を訪れ、原告フミ子に対し「解雇通知を受けとられたでしょう。ご主人はもう学園の人ではないのですから共済療養給付をそのまま使用することはできませんので、治療継続届(資格喪失後給付届書)を作成しないと医者代を自分で払わなければならなくなりますよ。それだけのお金は大変でしょう。私がすぐ手続をしてあげますから届書に判を押して下さい。」と言った。同原告は通りかかった担当医の大久保医師に相談したところ、同医師は「もう今夜か明日かという状態だから必要ないだろう。そっとしておいて来てあげたのだから、もう一日か二日ならそのままでいいでしょう。」と答えた。すると、被告大津は「いくらお医者様でも今日、明日ということが断定できますか。例えばもちなおされたとき届書が必要になるでしょう。私は親切心からこういうふうに書類を持って来てあげているのに何故判を押さないのですか。」と大久保医師に届書に添付すべき診断書の作成を要求したので、以前の事情を原告フミ子から聞いていた同医師は「もう今夜ということぐらいは判る。赤い血の流れている人間ならそういうことは言えないはずです。死人の足を引っぱるようなことをするんじゃない。」と言って被告大津との間でかなり激しい口論をした。原告フミ子は「こういう状態で、本当に今夜ということになって親戚も呼びましたので、どうかそのままにして下さい。」と被告大津に言ったところ、同被告はその場を辞去した。当時義綱は意識不明の重篤状態に陥っていた。

(十)  同年六月一日午後九時頃、被告大津は市大病院第二外科の当直医師から診断書の作成を得たうえ義綱の病室を訪れた。たまたま原告フミ子は暫時病室を離れ、原告美園、同美鈴の両名が在室していた。かねて前記劉医師より病人には絶対に癌であることを知らせてはいけないと注意されていた両原告は以前に原告フミ子から被告大津が敢えて義綱に癌であると告げる旨放言したことを聞いて、同被告に対し一種の恐怖心を懐いていたため、ドアを締め室内からドアを固く押さえ、やがて帰室した原告フミ子に抱きついて泣き出す有様であった。被告大津の来訪を知った原告フミ子は病室前の廊下で被告大津と会ったが、同被告が前記届書および添付の診断書を示し届書に捺印するよう迫ったので、原告フミ子は既に同日義綱の死を宣告されていたこともあり、被告大津の言うままに書類に捺印した。≪証拠判断省略≫

四、(被侵害利益と被告らの行為の違法性)

(一)  およそ傷病者の多くは、健康な生活を回復し、すくなくとも生命を保持するに必要な療養のために、診察、薬剤等の投与、処置、手術その他の治療、病院等への収容、看護等の医療措置とともに心身の安静、平穏をも欠くことができないものであるから、傷病者本人がその心身の安静、平穏を維持する利益を有することはいうまでもなく、また、傷病者の家族が適切な療養によって本人の傷病の回復、生命の保持を願い、療養上必要とされる本人の心身の安静、平穏を確保することを欲するは人倫に発する崇高自然の感情であるから、家族は傷病者の心身の安静、平穏を維持するについて利益を有するものというべきである。もっとも、傷病者の心身の安静、平穏といえども、傷病の種類、性質、態様に即し、それを維持、確保する程度と方法を異にし、従って傷病者および家族の有する前記利益にも当然強弱濃淡の差異を生ずものであるが、具体的事情の下において当該利益が社会観念上強度なものと認められるとき、これを法的保護に値する利益と評価するのを相当とする場合があることは否定できない。殊に癌疾患が末期的段階に達したため、医療的にはただ患者の肉体的苦痛を鎮静し、衰弱を抑止し、その生命をできるだけ保持させる措置をとる以外とうてい根治を期待できず、むしろその生存を一、二ヵ月以上は保し難いこと明らかな場合においては、患者が心身の安静、平穏を維持し、また家族が本人のためそれを確保する利益は強度なものであって、これを法的に保護するに値する利益と認めるのを至当とする。これを本件についてみるに、前記二の認定事実によれば、義綱が末期的段階に達した膵臓腺癌患者として、また原告らが同人の妻子として義綱の心身の安静、平穏を維持し、確保するにつき叙上のような意味の法的利益を有していたことは明らかである。

原告らの主張は、畢竟、被告湯本、同堀江、同大津がその行為によって義綱および原告らの前記法的利益を違法に侵害したというにあるから、次段に右被告らの行為の適否について判断する。

(二)  前記三(一)(二)の認定事実によれば、義綱と被告学園との雇傭契約関係は昭和四〇年三月三一日を以て終了すべきところ、被告学園の理事会の決定により一ヵ月間に限り義綱の職員としての地位の保有が認められたので、昭和四〇年四月三〇日限り右雇傭契約関係は終了したものといわなければならない(被告湯本アサ本人尋問の結果によれば、被告学園の停年規定は労働基準監督署に対する届出がなされていないことが認められるが、同学園職員に対する周知方法は一応とられていたことが認められるから、就業規則としての効力は妨げられない。)。従って、被告学園は雇傭契約の趣旨に従い、契約終了に伴う権利として義綱に対し、その意思に反しない限り、昭和四〇年四月三〇日限り退職する旨の退職届を提出すべきことを請求しうるに至ったものというべく、被告学園が義綱に対し退職届の提出を求めることはその限りでは正当な権利の行使であるとすべきである。

しかしながら、正当な権利を有する場合であっても、その権利行使の方法、態様が社会観念上相当とされる限度を超え、社会倫理観念に著しく背くと評価される場合はその権利行使は違法性を帯び、行為者は被害者に対し民法第七〇九条、七一〇条により不法行為に基づく精神的損害を賠償する責任を負うべきものといわなければならない。本件における如く相手方が癌患者として一、二ヵ月の生存しか保し難いとされ、また、家族らが夫又は父の死の到来の近いことを覚悟し、その精神的苦痛に耐えながら、同人の看病に日夜気遣っていたものであり、本人が心安らかに永遠の旅路に着くことをせめてもの願いとしている場合には、たとえ使用者が、雇傭契約上の権利に基づくものとはいえ、退職届の提出を請求するには弁えるべき適当な節度があり、本人および家族の心身の安静、平穏を徒らに損い、困惑と動揺のみを与えるような方法、態様のものであってはならないことは確立した社会倫理観念に徴し明白である。

しかるに、前述のように被告堀江、同大津は被告湯本の指示で義綱が療養中の自宅へ、あるいは入院中の病院へ再三(一回は再入院の直後)足を運び原告フミ子に対し執拗に退職願の提出を要求し、終始義綱の病床に付添って同人の看病をしていた同原告を著しく困惑させた。特に癌患者に対して癌である旨告げることが好ましくないことは医学上常識であるに拘らず、前記認定のように被告大津が原告フミ子に対し義綱に同人の病気が癌であることを知らせる旨放言した行為の如きは同原告を困惑動揺させることこれより甚しいものはなかったと考えられる。原告フミ子から被告大津の右発言を聞いた原告美園、同美鈴が被告大津に対し恐怖感を懐き、後日被告大津が原告フミ子不在中に義綱の病室を訪れた際同被告の入室を恐れ病室のドアを固く閉ざし、帰室した原告フミ子に抱きついて泣き出したという経緯も、原告美園、同美鈴に与えた動揺のいかに顕著であったかを示すものと認められる。更に前記のとおり被告湯本が義綱の自宅および同人が入院中の市大病院宛にそれぞれ解雇通知の内容証明郵便を発送した行為は、昭和四〇年四月三〇日限り被告学園と義綱の雇傭契約関係が終了したことを確認的に通知したものと解されるが、被告大津が原告フミ子から強硬に資格喪失後給付届書の押印をとった行為とともに、いずれも退職届提出要求行為に関連するものであり、それらの行為が原告フミ子を著しく困惑させたことも看過しえない事実である。

以上摘記した点を含めて前記三認定の事実関係を総合的に観察すれば、被告らの前記一連の行為は義綱が一、二ヵ月の余命しかないことを知悉しながら、原告らの感情を無視し、ひたすら義綱の心身の安静、平穏を維持しようとする同人らの利益を侵害したものであり、社会倫理観念に著しく背く違法な行為といわざるをえない。

(三)  病床にある者特に癌患者のような重病人については心身の安静が要求されることは前述のとおりであり、したがって病人の家族のみならず、その者と接触する全ての者は病人の心身の安静を損わないように配慮すべきことは当然である。

しかるに、被告湯本は医師の資格を有する者として義綱の病状を熟知し、同人が余命いくばくもないことを知りながら、同人の目に触れる可能性が大きいにもかかわらず、解雇通知の内容証明郵便を同人の入院先の病室宛送付し、それを読んだ義綱に対し大きな精神的動揺を与えたものである。

義綱は原告らの慎重な考慮によって、従来被告学園側から退職届提出の執拗な要求がなされていることを知らされないでいたから、このことを前提として考えると、義綱自身としては、一応平穏な療養生活を送っている間に昭和四〇年五月二八日頃被告湯本の発した前記「解雇通知」と題する内容証明郵便を受領したにすぎないかたちとなり、しかも、右郵便の内容は被告学園と義綱との雇傭契約関係が同年四月三〇日限り終了したという客観的事実を確認的に通知したものであるから、叙上の事実のみを取り上げて考える限り、被告湯本の行為は何等非議するに当らないものの如くであるがこのことを根拠にして被告湯本の行為を適法視することは許されない。むしろ、被告湯本の行為の適否については、(イ)同人が医師の資格を有し、かつ他の医師の所見も聞き及んでいて義綱の生存についてかなり適確な予測を有していたという主観的側面をこそ重視しなければならないし、また、(ロ)前記内容証明郵便の送付は、義綱がそれを受領閲読したことの自然の成行として、原告フミ子の口から従来被告学園側が原告フミ子に対してなした言動をも義綱に知らせる結果を生み、義綱の非嘆を深からしめたという効果の側面を看過すべきではなく、更に、(ハ)被告湯本の立場上、前記内容証明郵便を発送しなくても、義綱との雇傭契約が客観的に終了している以上同人の人事に関する事務処理にさして大きな蹉跌をきたすものとはいえない(義綱の欠勤届が提出されれば不受理の措置をとり、賃金の請求があればこれを拒否すれば足りる。)に拘らずあえてこれを発送したことも違法の加重要素として斟酌すべきである。叙上を総合すれば、被告湯本の行為も社会倫理観念に著しく背く違法な行為により義綱の心身の安静、平穏を維持する利益を侵害したとの非難を免れないものというべきである。

(四)  なお、原告らは被告学園が昭和四〇年四月上旬市大病院より原告ら主張の「現認証」の返還を受け、義綱の治療費の支払方法を変更した行為が違法である旨主張し、本件弁論の全趣旨により鉛筆書部分の成立を認めることができ、その余の部分は≪証拠省略≫によれば、被告湯本は昭和四〇年三月一六日付で、義綱の転落事故が業務作業中に発生したことを証明する趣旨の市大病院長宛の「現認証」なる証明書を発行し、右現認証が原告フミ子の手により市大病院に提出され、市大病院においては当初義綱に対する治療費等は災害補償(療養補償)として被告学園が支払うものとして治療等を行ってきたが、同月一八日第一回の試験開腹手術により義綱の病因が膵臓尾部腫瘍であることをつきとめた数日後被告学園に対し治療費等の支払に関して照会したところ、被告湯本、同大津が市大病院を訪れ、担当医師から義綱の病状の詳細を聞き取るとともに治療費等については共済療養給付を受ける手続をとったので、前記現認証を右被告らに返却したことが認められる。しかし、当時義綱の病気が膵臓癌であることが判明していたのであり、しかも、証人田仲哲蔵の証言により義綱の前記転落事故と膵臓癌との間に因果関係がないことが窺われる以上、当時の義綱の疾病について被告学園に災害補償(療養補償)の義務はなかったのである。してみれば、被告湯本、同大津が現認証の返却を受け、義綱の治療費の支払方法を共済療養給付扱いに変更したことは正当であり、その他被告学園の右取扱いにつき違法と目すべき事情を認めるに足りる証拠は存しない。

五、(被告らの責任)

前記三(三)ないし(十)記載の被告らの各行為は原告らに対するもの、義綱に対するもの、いずれも被告らが共同してなしたものであること、また右各行為の中被告湯本の行為は被告学園の理事の職務として行なわれたこと、および被告堀江、同大津は被告学園の被用者であり、両被告の前記行為は被告学園の事業の執行につきなされたものであることは前記三の認定事実より明らかであるから、被告ら(以下、被告学園を含む)は連帯して(被告学園と同被告を除く三被告との間にもそれぞれ不真正連帯の関係が生ずるものと解する。)原告らおよび義綱に対し前記不法行為によって生じた精神的損害を賠償する責任がある。

六、(損害)

前記諸事情を考慮すると、被告らの前記不法行為によって原告らおよび義綱が被った精神上の損害は金銭に見積れば、原告フミ子につき金三〇万円、原告美園、同美鈴につき各金一〇万円、亡義綱につき金一五万円と認めるのが相当である。

そして右義綱が死亡したことは前記のとおりであり、≪証拠省略≫によれば同人の相続人は原告らであることが認められるので、原告らは相続により義綱の被告らに対する前記損害賠償請求債権を各五万円ずつ取得したというべきである。

七、(結論)

以上のとおりであるから、原告らの各本訴請求は被告ら各自に対し、原告フミ子が金三五万円、原告美園、同美鈴が各一五万円および前記不法行為の後である昭和四〇年六月三日以降右各金員完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条本文、第九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 蕪山厳 裁判官 新海順次 生田瑞穂)

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